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日本のいちばん長い日〜THE EMPEROR IN AUGUST [movie]

生保の招待券で映画の試写会に行ってきました。そんな名目で会えた友人と有楽町のMUJIカフェで四時だけどデリランチ。温かいデリ8種から2品目、冷たいデリ10種から2品目選べるのは楽しい!
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ほうじ茶のプリンもほうじ茶風味たっぷりでスッキリ後味。クリームソーダもしょっぱいソフトに優しい味のメロンソーダで新鮮すっきり味わえました。
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映画は『日本のいちばん長い日』
終戦前日の降伏か本土決戦か一分一秒での風向きが変わるせめぎ合いと陸軍の若手将校の暴走にハラハラさせられながら俳優陣の演技に唸る131分。寝ないのが課題でしたが寝る暇なし!

はしごを外された軍人の気持ちもわかる。でも、ダンスで止める動きに筋力が必要なように、大局の目的に合わせて方向転換できないのは本物の筋力がないからなんだろなぁ。軍人の大局の目的は、天皇の意思に沿うというシオクラシーのはずなのに天皇の意思との乖離はなんでしょう。国体の構築、大局の目的に沿わなくても組織に都合のよい原理の中で盲進する陸軍のタコツボ思考は今の何かに似ているような…。
原爆を正当化したかった米国による自虐の思想プログラムに乗る気はないけど。責任はそこだけではない。
戦争に必要な石油だけは送ってきた米国。こうやって経済を回す構造は根強いもの。責任はここだけでもない。


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当時の阿南陸軍大臣はじめ御用会議の参加者は軍の末端の暴走を食い止める為に軍を鼓舞する演技をしながらも最終的に終戦に持ち込もうと苦心したさまは圧巻。天皇の意思に沿うよう徹していて、これぞシオクラシー!

「こんな武器しか残っていないのか」
「こら、それを言うな。火加減には気をつけないと。小魚はすぐ煮崩れるから。」

当時の鈴木貫太郎総理のこの言葉に集約されているのだろな。


******

議員による極右・ネトウヨ発言が放置され、マスコミにさらされて日常化しようとしている気持ちの悪いこの頃。こうすれば黙るという成功体験が一つ一つの流れを作り、大国を作るつもりが敗戦国を確認させられ5%に捧げる道筋が作られている。

これは目指しているシオクラシーなのか?
この乖離はなんだろう。


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【追記】
加藤陽子さんの話を基に  2015/8/6
なぜ、あんなにアジア各地で戦争をしなくてはいけなかったのか。
なぜ、サイパンが米軍の手に落ち、敗戦が確定してもやめられなかったのか。
少しでも攻撃して講話を有利に…一撃講話論でさえも無理なのに。
なぜ、合理的な見極めができなかったのか。
「合理性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、戦史を正確に編纂できる国、戦争を美談にしない国です。日本は残念ながら日露戦争がぎりぎりの辛勝だったことを隠した国でした。」
いまでもこの国が何かに勝てる気がさっぱりしないのは、なんでなんだろう。
今の政権で個人主義を否定する議員らが嬉々としていることも問題だ。もともと立憲主義は一神教の発想で縦関係。デモクラシー(民主主義)の多数決による多数の暴力からも個人の権利を守っている。個人主義でいいんです。
個人は日本には新しい言葉。多数決を全体主義に変換し、日本人には難しかったと自民党が証明してしまう。いいんだろうか。
お膳立てを崇め、ソーシャルプルーフというデフォルトの意見を所属のお守りにしてきた文化が個人に苦悩をあたえやしないか?  国民は国家に利用される存在ではないことをうたっているのが今の憲法。天皇をも利用するブラック国家からの自衛手段。(TPPはじめ、条約絡むとブラック多国籍企業からは守ってはくれないけどね。)
苦悩を美化した歴史から個人を守ってくれるのは確かなようだ。


米国も原爆を正当化し愚民の日本を民主化したという成功神話がベトナム戦争を長引かせ自国民を死に追いやった。
日本も愚民のシナ人を倒したという日清戦争の成功神話が大戦を長引かせ自国民を下痢便に塗れさせ餓死に追いやった。軍と民を分ける意識もなく市民に自爆を命じた沖縄。ガソリンの入った焼夷弾も原爆も早期消火すれば大丈夫と命じ、どの国と比べても稀だった人民軽視の愚策の数々も忘れたらしい。米国も日本も成功の歴史の延長だけを夢みて謝罪をしたがらず、即ち無駄死にした自国民を愚弄していることに気がつかない。それは敵国だった国民への差別意識と同等に自国民を扱っているというところで、正戦論を唱える両国の右派は著しく同等で融和する。政治家の靖國参拝にどれだけ謝罪の意がどれだけ含まれているか想像すればよくわかる。謝罪ではなく「國に捧げた」という気持ちにしか拝していない。根本として差別意識がベースにあるのだから、共同体の象徴である天皇の意思との乖離というかたちで現れて当然だと思っている。

おっと、小魚はすぐ煮崩れる。気をつけなくては。

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映画『ホテル・ルワンダ』隣人を監視しろ [movie]

20年前の今日悲劇が始まりました。
ラジオで煽られ虐殺を始めた隣人~_~;

評価ランキングで上位にあったので、なんの先入観もなく選んだ一作でしたが、当たりでした!

異常事態でも、人道的に行動した臨時支配人の実話です。

94年、アフリカのルワンダで民族間の対立が大虐殺に発展し、100日間で100万人もの人々が惨殺さる中、ルワンダの高級ホテルに勤めていた一人の男がホテルに1200人もの人々をかくまってその命を守り抜いた。この実話を「父の祈りを」でアイルランド紛争を描いた脚本家テリー・ジョージ映画化。主演は「トラフィック」のドン・チードル。国連兵士役でニック・ノルティ、報道カメラマン役でホアキン・フェニックスが共演。[映画com解説]

『ごちそうさん』で描かれた戦時統制下でも身の振る舞いをどうしたものかと考えさせられました。「おかしいと思ったら、いわなあかん。無力な大人の責任や。偉い人はそれをいわせなあかん。どっちも無責任やったんや。」
おかしいと思ってるうちに、異常事態に転がるのはどこも一緒なんですね。

ラジオで煽られ、おかしくなる隣人。
「油断するな。隣人を監視しろ」を合言葉にジェノサイドに突き進む。
こんなとき、自分ならどうする?と考えてみたいです。

こんな異常に世界中が黙っているはずはないと思われたのですが、決死の報道にも他人事の私たち。国連は静観していたのですね。

静観はルワンダに経済的な利用価値がなかったからなんでしょう。東北で震災の復興が進まないのもそういう理由が本音ですし、いろんなことの縮図も描かれているようです。

そして、報道をみながらも「酷いね」とディナーを続けた私達ですが、今の日本はほんとに大丈夫なんでしょうか?
ネットに煽られ『アンネの日記』が破られた事件は予兆と捉え、危機感を持った方がいいのかもしれません。混乱時、国内でも風評がもとになっての特定の民族の虐殺がありましたし。

史実から学ぶのは大切なこと。

どこでもジェノサイドは起こり得る。
映画を観て身に近づけて、しっかり考えることは大事ですよね。自分だったらどうしただろう。残虐な場面も控え目ですので中高生でも大丈夫。テンポもいいのでオススメですよ!

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【追記】
何にも知らなかったんだなぁ。民族紛争って怖い…って思っていたら、民族のくくりなんて、ある程度勝手に作れるものだと思っていいんでしょうね。日本国だってね。
フツ族とツチ族は人種も言語も文化も宗教も同じで、ルワンダがベルギーの植民地になったときに、わざわざ分割、対立させて統治する手法をとるために、農業と遊牧などの職業などによって適当に分けたんだとか。はぁ?  意図しないで所属しているのに、くだらない怨念のハケ口にされていい迷惑。理不尽な怨念や、理不尽な統治や一部の金儲けの為に利用されて、惨殺される無念。わざわざ対立すること、させられることの無意味をここで学んだ気がします。



映画『鬼が来た!』は半澤ロスに効き過ぎた! [movie]

昨日は頭痛が治まらずに何も出来なかったので映画。半澤ロスなので堺雅人のまったり映画『ジャージの二人』と香川照之の気迫と狂気の原点、2000年カンヌグランプリ受賞作『鬼が来た!』鑑賞。どちらも映画の良さが味わえました。言語化できないものもしっかり伝えられてる!そして後からジワジワ余韻が来ています…。

中国映画の『鬼が来た!』の鬼は日本人(鬼子)のこと。太平洋戦争末期が舞台。抗日映画かと思いきや双方の触れ合いがシュールな笑いに包まれます。

万里の長城近くの辺境の村に麻袋で運び込まれ、世話をされることになった花屋(香川)と通訳。世話役のマー(監督でもある姜文)に悪態をつくつもりが…「おじいさん、おばあさんおめでとうございます!」とやらかす。保身の為に通訳がウソを教えたんですね。そんな感じで和やかな関係になってもそのまま進まないのが戦争。戦争自体が不条理だらけなので、アングラ舞台の不条理な設定をそのまま現実にシフトさせているような錯覚を覚えます。

中国当局は上映禁止に?
中国共産党は北部に少数しかいなかったのに日本軍を追い出す為に英国が資金援助して成り立ったわけだから、中国共産党の存在意義から行ってもあくまで日本軍は残虐であって欲しいということかしら。

■カンヌ映画祭受賞作品「鬼が来た」―中国で上映できなかった理由―
http://youtu.be/T9xZNg0I_Sw
ふむふむ。ほんとに当局オススメの映画は一面的なイデオロギーで作られていてなんて薄っぺらいんでしょうね。統治下での村人の愚昧ぶりが気に入らないと?「村人はそんなもの。戦争のバカバカしさを描いている秀作」と詩人に話させる中国番組は健全ですね。

負傷した日本兵を見て嘆く日本女性の姿を映したり、同じ人間であることをしっかり描きます。とはいえ日本軍をただただ好意的に描いている訳でもなく、体罰全開、狂気の沙汰も見栄次第の最悪な展開に頭痛が悪化。

香川照之の記録によると五ヶ月間の撮影現場はずさんで不潔で劣悪で、狂気を引き起こすのに十分らしかったので日本人の役者にとってもリアルな狂乱ぶりだったのかもしれません。

そしてラストは圧巻。温厚なマーがどうして…。(気持ちネタバレですみません。)戦争がもたらす狂気に敵味方もないんですよね。鬼は日本人のことではなく狂気そのものなんでしょう。モノクロ映画なのですが色味の差す瞬間があって…衝撃を産みます。鬼からの解放を示していたのでしょうか。意味深でした。


夢見の悪い人はみない方がよさそうですが、中国当局と日本帝国の歪んだイデオロギーに振り回された国民の姿に、禁断のリアリズムとシュールな深みを与えてくれる意味で必見!

[監督 姜文]

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00006RTUV/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00006RTUV&linkCode=as2&tag=ayuko03-22

『青い鳥』重松清×阿部寛[映画] [movie]

いじめ騒ぎが終わり、事なかれの体制のなか、立派な反省文を書いて反省したと思っている僕たちの前に吃音の先生がやってきた。

その先生はまず、いじめで転校した生徒の机を元に戻させ、机に向かって「野口くん、おはよう」と挨拶をしている。気持ち悪い。俺たちに対する罰なのか。もう、終わったはずなのに。忘れたいのに。

吃音の先生は少ない言葉を絞り出すように生徒たちに語りかける。本気の言葉は本気で聴いて欲しいと。そして強制はしない。
わかりにくいその行動に苛立ちを見せる周囲。親、学校。ただ、生徒たちは消化し切れていない自分たちの心に寄り添ってくれていることに気がつき始める。加害者をはじめ…。

吃音をもつ重松清が現場の子供たちにしてあげたいことなんだろな。

その語りかけは鋭く現場に突き刺さるよう。これは大津事件の前に公開されている映画なのに。いじめの問題は既視感が何回も繰り返されている。教育関係者は観るべき映画なんじゃないかしら。

言葉を扱う作家として、教師から強制されて書き直された[立派で道徳的な]反省文をとても虚しく受けとめているのが痛いほどわかる。若い先生に「書き直させるほど生徒が見えなくなってくる。正解を求めているだけ。」と言わせている。形式的な反省の仕方を教え込んでどうするというのだろう。なかったことにするのが大人の儀礼だと教えたいかのよう。

形式の言葉が染み込んだ生徒には、先生の言葉が届かない。そんな描写があったようにみえたのは気のせいかしら。

自分が追い込んだのかもしれないと悩み始める生徒役、本郷奏多君の言葉は追い詰められた悲壮をもって、心を強くえぐってきた。
「人をキライになるだけでも、いじめですか?」「だって、笑っていたから」

考える、逃げたい、考える、消したい、考える、考えた先に、そっと差し出された先生の言葉を聴いて、私も思わず涙がぼろぼろ…。

本郷君は、先生の少ない言葉をすくい取るようにして、先生の思いを自分のものにする過程を静かに表現していました。

原作は読んでいないのだけど、映画だからこそ説明の少ない臨場感を持っていた。居場所を作るためにかりそめの姿をした友達たちの言葉と表情から、吃音だったり表現がうまくできない人の少ない言葉と表情から、本当の気持ちが読み取れるかどうか、を試されている気がした。

そして、現場の人間たちは…私たちは、ただの『いじり』と片付けてその微かな声を聞き漏らしていないだろうか。かりそめの声に隠されることに甘えて、当たり前の光景にしていないだろうか。(『透明化』というようです。)

「人を軽くみる。ないがしろにする。それがいじめだ。それを見過ごすのもいじめだ。」教室だけでなくこの世の中で、その罪が軽くならないことを祈るばかり。

それから、言うまでもなく、阿部寛が作る、吃音者の作り出す空気と本気があってこそ成り立つ映画。阿部寛の押さえ込んだ演技も新鮮なので、そんな点でも観る価値あり。いい映画を観ました!

http://youtu.be/Bsrbx53z1Tk
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いじめを防ぐ集団作り。教育界は。http://anyuko.blog.so-net.ne.jp/2012-08-07 『多様な意見を』という杉森伸吉教授の進言はいじめから脱却する活路だと思えます。みんなが言ってるから…根拠がなくても空気に洗脳されやすい国の私達だからこそ。

映画『桐島、部活やめるってよ』 [movie]

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かっこ良いってなんだろう。
スクールカーストを意識する滑稽さに気がついた時、恋に振り回されている滑稽さに気がついた時、部活を通して好きなことに熱中できることが自分を救うことに気がつく。結果や見栄えじゃない。
表題の桐島の退部が「懸命」を反問している朝井リョウ原作の構成もすごいわけだけど。
人の評価を気にして生きることの価値は?
出来ることと幸せは同義じゃない。

万能な桐島と関わっていた面々は、桐島と関わることで得ていたステータスに気がついて慌てふためいて桐島を探し回る。学校という狭い世界だからこそ重要なステータス。あぁ、でもそれは社会でも同じで、一流企業のステータスが地に落ちたときのあがきぶりと重なるか。そのあがきのなかで、下層と認識している映画部の活動をどんなに邪魔しても何も感じない鈍感ぶりも。

学校の枠に収まらない「本当の自分」とやらを意識しながら、どこか自己プロデュースに振り回される矛盾。心の中で空回りする自意識。「かっこいいよ」という賞賛の実体のなさ。満たされない。気がつけた。
そんな心の情景が鮮やかに描かれる。

状況を角度を変えてリフレインする演出も巧み。直接的な説明を極力省いているからこそ、原作より毒がなくてメッセージにすんなり誘導される。純文学の正当な映画化だと思えた。

神木龍之介君の台詞まわしがいい[ぴかぴか(新しい)]
神木君は映画部の監督役。ゾンビ大好きぶりが面白い!信望する映画の代表として塚本晋也監督の「鉄男」が出てきたわ。いいとこきますね。(あら「妖怪ハンターヒルコ」も塚本監督作品だったのね!)

撮影の主題を決めるのに、先生がリアリティが大事とテーマを押し付ける、でも学生はゾンビの方がリアルという(笑)。大人と子どもの価値観の対比みたいなやりとりもあってリアル(笑)。青春ど真ん中だとリアルってどこか必要ないものかもね。

このど真ん中なリアルは学生にも支持されてヒットしたわけだけど。



天地明察(映画) [movie]

天文と算術が大好きな碁打ちの安井算哲。将軍様の御前試合では予め示された展開を打つのが定例だったが、ある日真剣勝負を望み、初手で天元(碁盤の中央)に打ち下ろす。

自らの職に半ばピリオドを打ったと言えるのだけど、それは才能を開花させる序章だった。

地球が丸いことも公転も知られていなかった時代。吉凶を暦で決めていた時代。導入800年のうちに明らかにずれて来た暦を『改暦』する事業の責任者に任されたのだ!

当時、暦を司るのは朝廷。暦は利権も絡む。変化することを嫌う権威は、算哲らが出した結果に対して…。

さてどうなるのでしょう!

筋立ても単調なのですが、そこに至るまでの物語にどうしようもない失敗もあったり、夫婦愛もあったり、仲間と織りなす真実に懸ける科学へのロマンもあったり、と細部がとにかく飽きさせません。この後ネタバレ少々。

当時、こんな計測で?こんなことが出来てたの?って感じです。
全くすごい。歩測だよ。

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映画の算哲役は岡田准一君。天文や算術に対して犬ころみたいに喜んで夢中になる、好きで好きでたまらない好青年を爽やかに演じていてGOOD。

北極星の位置を測りに全国行脚する「北極出地」の仲間、笹野高史と岸部一徳演じる老人達がまた良くて思い返してはにやにやできるくらい。算哲が正しい答え「明察」を導いた時は「安井算哲、ご明察!主は天の申し子か?」と褒め称える様子が率直でとても気持ちいい!

ちょうど『僕と息子のアスペルガー物語』http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34699 を愛読しているのだけれど数字好きが集まる『ナンバー同好会』内で仲間への評価が率直なこと潔い。障害はさておき純粋な科学好きは率直な評価を表すのだろうな〜と想像してしまう。

あと、中井貴一演じる水戸光圀も魅力的。当時ワインを飲む情報通。ネパールに住んでいたという作者の冲方丁は黄門様のイメージがないからの書きっぷりだったのだけど、そのギャップが次作『水戸光圀』に繋がってるんだとか。(次作も面白そう。)

猿之助演じる関孝和の力強さもいい感じ。
あと、数学だけでも天文計測だけでも解決出来ない限界が訴えられたりして、まさに現代の天文学と物理学と数学の補完関係を示していて、、、だよね〜って頷ける。

朝廷のメンツも配慮する幕府や民衆の描写も小説とはいえ、さもありなん。

冲方丁さんはあまり知らないけれども発言もとてもリベラルで好感度大。江戸時代は女子含めて算術が娯楽。今でも数独が流行ってる。算哲を産んだ土壌がある。そんな国民性を持つ日本人に対して、リーダーは「俺がやってる」じゃなくて「この指針で行こう」と示すだけで国民は問題を解決するはずなのに、今は萎縮させる方向。リーダーに全てを任せるんじゃなくて、自主的な動きをしやすくしてくれるリーダーを選びたいですね。とのこと。

サッカーなでしこジャパンの佐々木監督と同じこと言ってますね。がっちり合致!
リーダーは主役になるな。「引き出せ」
うん、日本人にとって強烈な自我の確立は大きな課題じゃないかも。


あ、あと宮崎あおい演じる妻のえんとの描写も微笑ましい。


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そして、この映画、セリフがまたいいのよね。

初代会津藩主 保科正之
「安井算哲、天を相手に真剣勝負みせてもらう。」
「御意」

安井算哲「天の定石を正しく掴み、天地明察を成し遂げなければなりません。」

建部様「あまねく星々を…この両の手に」
(ビッグバン直後ならできるね!)
あぁ、ロマンチック。

そして、音楽は久石譲。
千と千尋っぽいのがまた楽しかったり、しっかり映画の世界を盛り上げて、私達を星々に近づけてくれています。

観て良かった!


天地明察予告
https://youtu.be/dIsT6NWz-3E

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映画『モテキ』〜ネタバレ注 [movie]


モテキ DVD通常版


まず見てこの一言
『(500)日のサマー』?

サブカルチャーな趣味にどっぷりオタクの童貞君が、趣味も合うしスタイル抜群の可愛い彼女と意気投合。なのに彼女は彼氏持ち。でも、毎日会ってるし…僕は何?

自意識を救いとって存在意義みたいになってるサブカルチャーにジャストミートな異性が現れて…って展開だけでも『サマー?』って思ったのに、極めつけがこの演出。オマージュでしょ、これッ。

上手く行って浮かれた気分の演出が、道行く街の人々とのダンス。さすがにホール&オーツじゃなくてパ○ュームだけど。日本っぽい軽くてPopな演出が小気味いい。しかもダンスも見応え十分。さすが森山未来、芸達者。もともとダンスできますって触れ込みだったもんね。

でも『サマー』?って思ったのは冒頭だけでだんだん色合いが複雑に。

本舗はモテないのが嘘っぽい甘いマスクのジョゼフ君(堺雅人っぽい)に対して森山君。ねっとり狙い過ぎなキャラのズーイー(シー&ヒム)に対してサラっとした長澤まさみだし。

『モテキ』の感想の半分は「あれは俺だと思う。観ていて気が気でない。」だっけ。そう思わせる森山未来さすが。

ライターの能力もあって、あれだけ人とコミット出来ていれば十分なんだろうけど。異性との付き合いは別の話しね。

日本のPopカルチャーの扱い方も時代に寄り添ってなるほど!と楽しい。アイドルソングの昂揚?効用?もばっさり。久保ミツロウの原作には、このサブカルチャーと自意識の距離感をばっさり叩き切った言葉がちりばめられているのかしら。久保ミツロウ、女だからのばっさり感。期待〜。

気分をカラオケの歌詞さながらにテロップするあたり。カラオケの歌詞を読んで、グッと入り込む効果は皆よく知ってるもんね。面白い表現だわ。

マンガは途中までしか読んでないけど、麻生久美子はもっとえぐくて不幸になってて、主人公は罪悪感から出来た傷に散々塩を塗り込まれてた気がする。映画はそこまでしないで傷もさらさら後味を計算してる。遊び人役がリリーフランキーってとこからキレイな演出なんだろな。

ラストは…

とにかく後味すっきり!
澱が残らなくて面白い映画は久々。見てよかった。



久保ミツロウ。タイムスリップ部活もの『アゲイン』も好調みたい。こちらも期待!





(500)日のサマー [DVD]



アゲイン!!(1) (KCデラックス)


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前回ブログ『KOTOKO』を観て〜の感想をもらった。 [movie]

前回の映画『KOTOKO』を観て〜の感想をもらった。言い当てられてドキリとした。

「作品から受け取った感動に恥じないようとする責任感。」
「書かずにはいられなかったのでは」

まさにそう。けれどもすぐに書いたわけではなくて、見終わったダメージも大きかったから、すぐに言葉で断ずることもできないまま、傷跡を放置しておいた。
そうしたら、傷跡からジクジクとリンパ液が出てくるように、言葉がジクジクと漏れだして、そのうえ頭の回りを纏わり付くだけど、まとめる気になれなくて。
朝日新聞の評を読んだら、ちょっと背中押されて。文章を重ねることで、やっと出すことが出来て、そしてやっとまとまった。

動揺すると自分の中で熟成させようしてるのか、どこかで距離を置こうとしてるのか、まとめるのが遅くなる。

とりあえずひとつまとまると、飛び交ってたものが、収まる。

飛び交う念が自分のお経で少しずつ成仏する。合掌したくなる。

あ、表現ってそんなものかな。



「寓話。醜いもの、否定的なもの、そして暖かいもの、肯定的なもの、その全てが合わさって初めて本当の美しさが現れる。」

まさに。
これは、二律背反した母性のありように救われていくモチーフなんだと思う。


書いた後で宮台真司氏の評も読んだ。面白い。

【連載:宮台真司の超映画考】第10回「三本の「震災映画」から、映画の可能性を見通す 〜『ヒミズ』『KOTOKO』『RIVER』〜」 寺脇さんの論考に続き、今回の宮台さんの連載もまた「震災-映画」について論じられています。

“「疲れた男」が「聖なる娼婦」に救済される”
「ここではないどこか」を切望するのでなく、自分の居るこの場所をひたすら真下に掘り続けることで、突如、地球の裏側という「ここではないどこか」へは突き抜ける驚き。実際、突き抜けた先には「女が踊る、沖縄の海」という神話的空間が拡がっていたのだ。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=954


昨日は塚本監督との対談があった?

#eiga 映画KOTOKO、宮台真司さんと塚本監督とでトークイベントが。宮台さんが最後に質問した「映画の中の沖縄は、人が求める正しい世界の象徴なのか?それとも、失われてしまった二度と手に入らない世界の象徴なのか?」良い質問だったけど、答えはこれからの映画でというオチも良かった

んだとか!捕われてるなぁ。
『ここではないどこか、に行くことへの飽くなき欲求』は
何故なんだろう。肉体があるからか。男だからか。


聴きたかったな。




※二律背反した母性 
地母神イザナギは全てを産み出した偉大な母の神であるが、黄泉の国を統治する死の神。 かくて、母性はその根元において、生と死の両面性を持っている。産み育てる肯定的な面と全てを呑み込んで死に至らしめる否定的な面を持つ。 『昔話の深層』河合隼雄 
 
(母性の両面性)
        死 
     呑み込む 
     誘い込む 
     つかむ 
     包含する 
     支える 
     育てる 
     実らせる
        生


コトコノコ

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映画『KOTOKO』 [movie]


コトコノコ



目の前で我が子が危険にさらされたならば、あなたは平静を保てるだろうか?
母親にとって我が子はいわば分身。危険があればあるほど境界が曖昧になり平静さを欠落させて行くに違いない。

琴子には世界が二つ見える。他者は常に我が子を危険にさらす存在なのだ。他者がいる限り危険があるのが日常。平静が保てるはずもなく自らを追い込んでいく。

折しも、放射能の判然としない安全基準…リスクを負ったもの負けという現実を前に、心配のあまりエキセントリックと映る母たちの母性と重なり普遍性を色濃くする。
全く他人事ではない。


赤裸々な感情の表現者、Coccoの歌詞世界に想起され、鬼才塚本晋也監督が自身の亡き母への慕情をこめて、垂れ込める戦争に突き進む予感→我が子が危険に曝された時の『母性』を、「琴子」という”監督の作り出したCoccoのイメージ”を使って描いている。

世界が二つ見える設定も、Coccoと話しを重ねた結果のよう。Coccoの故郷、沖縄も舞台になるのだけれど、自然だらけの沖縄が映されると何かしら霊的なものと遮断されてない感じがして、もうひとつの世界が現実に『みえる』設定が当たり前に思えてくる。

もともとCoccoの唄世界は流行ではない、普遍的な感情を濃縮させたものなので、それだけで寓話のように在る。その理由に近づけたとも言えようか。

作中、Coccoの演技を感じさせない錯乱状態は、不安というジェットコースターに一緒に乗っていると錯覚するくらい…
だからCocco自身が、危ういメンタルを赤裸々に出していたのかと思いきや、監督に言わせると「何を要求されているかよく汲み取って演じていた。生まれついての表現者だ。」とのこと。

生まれついての表現者は自身を俯瞰して見るのが当たり前だから、演じることも『自身』でいるだけで成り立ったりするのかもしれない。監督から見たCoccoの映画だから尚更なのだろうけど。

Coccoの担当した美術がまた秀逸。あの色使いはなんなんだろう。妄想になだれ込んだ先のミシェルコンドリー風の手作りおもちゃの世界を見ても、表現者としての幅の広さに陶然としてしまった。

子役として実のお子さんも登場。健全なそのたたずまいに、世間的な範疇にない確かで大きな愛の存在を感じた。そしてその愛は観るものを確実に救っている。

(どんなカタチに変化しても、愛は人を裏切らない。)

それを成り立たせる寓話を世の中は求めているはずだ。

多少極端ではあるけれど、その暗喩にどれだけの人がそれに気がつくことが出来るのだろうか。
映画読みにはジワリとくるはず。大衆的ではないからこそベネチア国際映画祭オリゾンティ部門最高賞〜世界での受賞に納得。

映画館で観賞。ハンディカムで録られたリアルな音と唄が際立ち、心理に及ぼす効果が存分に感じられてよかった。

監督挨拶もあった。海外で評価が高いという鬼才/塚本晋也監督は、崩壊と衝撃を畳み掛けていく映画『鉄男』でしか知らなかったが、彼の語りを聞くことで、思いをカタチ作る確かな「知」に行き当たれた。
よい体験ができた。



以下、新聞の評を転載。

『KOTOKO』〜他人事ではない自他の関係失調 (山根貞男)

 若い母親の心の叫びを描いた女性映画である。ヒロインを演じるのはシンガーソングライターのcocco。映画初主演に加えて、企画、原案、美術、音楽と多様な役割を務める。

 ヒロイン琴子には世界を二つに見える、赤ん坊を抱いて道を歩いていると、自転車に乗った中年男を襲いかかる。琴子は恐怖に陥るが、男は単に通り過ぎてゆくだけだ。近所の主婦が赤ん坊を見て、まあ、かわいいと近づくや、琴子には我が子を襲う悪魔にみえてしまう。
母性の過剰さが他人との関係を失調させるのである。琴子は子どもを沖縄の姉に預けるが、東京での孤独な日々の中、リストカットを繰り返す。自己との関係が失調するわけで、歌を口ずさむときだけ心が安らぐ。

 監督は塚本晋也。琴子の歌に魅せられる小説家を自ら演じるほかに、企画、政策、脚本、撮影、編集も務める。

 琴子は近づいてきた小説家に暴力的に追い払う。それでも彼は怯まず、傷だらけになりながら求愛する。琴子は沖縄で健やかに成長した男の子の姿に安心し、小説家と暮らすが、また妄想がぶり返し、彼への暴力が日に日にエスカレートする。

 荒れ狂う女と、満身創痍で彼女を抱きしめる男、まさに地獄図だが、同時に、何か熱いものを強烈に訴えてくる。描写の細部が過酷な関係の劇をリアルに感じさせるのである。琴子における対他・対自の失調はとても他人事とは思えない。

 終盤、錯乱の高じた琴子はさらに無残な行動に突き進む。それがどのように衝撃的で、どんな結末に至るかは、ぜひ映画館で見届けていただきたい。

 個性豊かな歌姫と映画作家のコラボレーションは、東日本大震災と原発事故を挟んで続けられ、愛の映画に結実した
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ガタカ~遺伝子で選別される世界 [movie]

『Gattaca』(1997) SF映画 Director: Andrew Niccol


切り落とされる爪、抜け落ちる髪、剃り落とされるヒゲ…それらが青をバックに大写しになって音をたてて落ちてゆく。それらはまるでオブジェの様相を持つよう。

マイケルナイマンの放つ優しく悲しいメロディがそのオブジェに感情をもたせるけれど、スローテンポなので見る側を深くまで引き込んでいくのに十分で、展開を不安にさせる。

落ちたそのオブジェは人間が生きていて付き合うものでありながら、あまりに瑣末なもののはず。
なのに、この映画の世界ではそれが個人の資質そのものを示し、この世界での在り方に直結する物証。まるで分身のような扱われ方をする。
そう、それらはDNAを示すのに十分だから。


この世界は、生まれ落ちた時から寿命が予測されるばかりか、性格、能力、負の因子の発生する確率が全て、プロフィールとしてデータベースに落とされる。つまり、その世界での位置付けが確定されてしまう。人種も血縁も関係なく科学的に差別される時代。

情熱も、努力も、その世界での位置付けにはなんの意味ももたらさない。

だから、夫婦は気に入った遺伝子を選びながら、子供をデザインしてオーダーするのが当たり前。

情熱の赴くまま生まれ落ちた子供は「神の子」または「不適正者」として差別されていた。

この映画の主人公「ビンセント」(イーサン・ホーク)もその一人。生まれ落ちてすぐに遺伝子判断で心臓疾患が発生する確率99.9%、寿命30歳とされ、父は自分の名前を継がせなかった。かたや遺伝子操作で生まれて父の名を継いだ「アントン」。

やはり優秀な弟と能力の差は大きくて、海での競泳も彼を惨めにさせるに十分だった。
けれどもビンセントは「宇宙飛行士」になるという夢に支えられていて、懸命に努力を続けていた。
なのに宇宙機構「ガタカ」は不採用。なすすべをなくしたその時、海での競泳で弟に勝つ。
その奇跡で自分の可能性を確信したビンセントは、家を出るのだった。

そして、彼が選んだ手段は、優秀な遺伝子を持つジェローム(ジュード・ロウ)になりかわることだった。
ジェロームの尿によって遺伝子検査をクリアしたビンセントはガタカに入社。日々の遺伝子検査をくぐり抜け、出世していき、見事、土星の衛星タイタン行きの宇宙飛行士に選ばれる。
けれども、あと一週間で出発という時に、彼を疑っていた上司が殺され、現場には不適性者のまつげが残されていた。そして彼の顔写真がガタカにあふれて…どうなるビンセント!


と考えさせられる背景に、スリリングな展開、ロマンスも加わった、長い長い一週間の物語。
"Gattaca"のスペル、クレジットで強調されるGとAとTとCは、DNAの基本分子であるguanine(グアニン)、adenine(アデニン)、thymine(チミン)、cytosine(シトシン)の頭文字


どうせやっても出来ないし…と逃げるくせがついている時、どうせこいつは…と相手を諦めるくせがついている時こそ、見るべき一本かと。

私達も社会で、組織に必要な要素を主観で選別されて差別されている。映画の世界は能力選別を遺伝子検査で合理的にしているだけ。どちらもどこかで可能性を遮断している。

だから社会での選別を経験している私達も、勘違いしてない限りは、登場人物達に想いが行って心がざわつくはず。


私は後半、弟と出会った部分から、二人の想いを考えてしまい、涙が出てきて、その後もいろいろあって涙が止まらなくなって、一回めはしっかりみれないままでした。

タオルが必要な映画です。



このあとはネタバレ。
観てない方は観てから読むことをオススメします。


The Departure ~ Michael Nyman









「ガタカ」は最前線の職場だけあって出社ごとの遺伝子検査に抜き打ち検査もある。
対策として彼は毎朝執拗なまでに身体を擦るのだけど、その映像から、(自らが認められていない現実を身体で受け止めている)ようで悲壮感がひしひしと伝わってくる。


半面、選ばれ、作られ、役割を果たす為に生まれ落ちた適正者ジェローム。「化け物」といわれるまでの能力に、孤高の立場を強いられ、あげくの果てに結果を出せなかったら…。
銀メダルに甘んじた苦しみに耐えられなかった。

思わず浮かぶこの言葉
「2位じゃだめなんですか?」

彼の生き方は「役割を果たすこと」で、「夢を追うこと」ではなかった。

だから、ビンセントに会うことで、夢を知り、約束された長い寿命から解放されることを選択していく。

産んでくれ、と頼んでないのに産まれてくる苦しみ。人間誰もが持つ苦しみだけど、彼ら「適正者」の苦しみはどうなのだろう。
(「選ばれて産まれた」と宣告されたから苦しいのか、宣告されてないけど選ばれて産まれてくればどうなのか、そもそも偶然の神は選んでないのか、考えるときりがないので置いといて)

神ではなく人に選ばされた「生」だからこそ、解放の瞬間は自分が選ぶかのよう。
永い契約から解放された時、彼を包む炎は優しく激しくて、銀メダルを金に輝かせていた。

そして、その炎はビンセントが乗るロケットの炎と同期していて、ビンセントの「宇宙という生命の起源に帰る」というナレーションとともに、ジェロームの想いも宇宙に運ばれていくようだった。

涙。



精悍な顔つきのジュード・ロウが荒んだエリートを演じきっていてぴったりだった。

あと、恋人アイリーン役ユマ・サーマンの美しいことといったら!
『パルプフィクション』のバイオレンスな美しさが鮮明だけど、近未来の少し人工的なキャリアウーマンも決まっていて、彼女の美しさも見れて得した気分。遺伝子に欠陥があるとの設定も、彼女にはかなさの美を添えるみたい。あ〜美しい。

ビンセント役のイーサンホークは、エリートのくせに歩き方に腰が入ってないというか、歩き方がふらふらしてたり、人間味を出す為なんだか、へらへら笑うものだから、ハラハラさせれっぱなし。とはいえエリートの風貌も見せてたから、難しい二面性をバランスとって演じてたわけだし良い配役と言えるのかな。

あと、ガタカの遺伝子検査技師とのやりとりがたまらない。右手…。そういうことなのね!

「立派なものを…」
「先生そればっかり」

遺伝子操作に作られたんじゃなくて、神の子だからこそ。彼が選ばれていることを暗示しているみたい。
生命の維持に必要なものを提示する役割。
社会システムを打ち破る可能性。
諦めは天下の大害なり(墨子)。
可能性はあるんだよね。






※ガタカの世界感に思うこと


新聞を読んだら、「友達の多い人は記憶の処理や情動反応に関係する脳の扁桃体、灰白質の量と相関がある」んだとか。身体の機能が社会での性質も決めているらしい。〜研究が好奇心を越えて、人を限定してみせる世の中も遠くなさそうで、複雑。


悲しいことに日本では放射能によるDNAの破壊がリアルタイムで進んでいるのよね。細胞分裂する成長期が壊れ易いんだっけ。一度設計図が壊れると壊れたまま。このガタカの世界ではかなり生きにくそう。いや、遺伝子の選別技術は「救済」につながるのかしら。


あと、生物学的に考えると…
福島伸一さんの言葉で、なんだっけ。NHKいのちドキュメントで、パンダは草食じゃないのに、栄養効率の悪い笹を一日食べて、余計なカロリー使わない様に食べるか寝るかしかしてないって話っで言ってた。要は『棲み分け』。なんて言葉か忘れたけれど。
生物は「種によって生きる場所を決めていて」自分達が食べられたらそれでよい。
人間だけが足るを知るリミッターがなく、占有の欲望に追われて、侵略を繰り返すんだとか。
で、自分を担保する分子的な基盤がないと不安で仕方ない。だから制度に頼る。


ということは、多種多様な生物の在り方を模した社会システムが、カースト制や江戸時代の士農工商やらで、そこそこに占有の欲望を制度で制御して、長々と存続していたんじゃないかな。

でもやっぱり不満は出るから

それを脱却して、可能性を求めた能力至上主義も、誰もかれもが職種を超えて侵略に加担しているみたいで、行き着くとグローバリズムを産んで、生命より経済を大切にしたりと、おかしなことになっているように思え、

そしてまた、ガタカの世界にたどり着いて、遺伝子によって職場が決まる社会が来て、それはやはり「種によって生きる場所を決めている」人間以外の生物を模した、素晴らしく合理的なシステムだとも考え、

それでも、「可能性」を限定されることを拒否し、「可能性」を求めて飛び出すビンセントのような人間が、人間の生殖を受け持つに相応しい人間だったりするのだろう。

「ここに居なさい」と限定するのが母なる生命の営みとするならば、「迎合を許さない」のが父。キリスト教では父が人間誕生の起源になる。父の作りし人の子は可能性を求め続けなければいけない。
そういう意味でも、ビンセントは選ばれた「神の子」という位置づけになるだろう。

大脳皮質が脳幹の大きさを超えたところで、人間は可能性を求める生き方を選ぶように決められているのかもしれないな。


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